2013年7月7日正式に籍を入れました
戸籍上とはいえ、宍戸慈から伊藤慈になった気分は、正直なんだか不思議です
今日は思い出話をひとつ。
7月7日七夕は、19年前に亡くなった
大好きだったおばあちゃま(おばあちゃんの妹)の命日
子どもに恵まれなかったおばあちゃまは
私のことを本当の孫のように可愛がってくれていて
おばあちゃまの家に泊まりに行っては
かりんとうや乾パンとお漬け物を食べながら
一緒にお茶をすすっていた
そんな私をみて「そうかいそうかい。おいしいかい」
とニコニコ笑いかけてくれるおばあちゃまが、私はこの上なく大好きだった
一方、おじいちゃまはちょっぴり偏屈な人で
遊びにいくと決まってイーゼルに向かって絵を書いていた
油っぽい絵の具が散らばった部屋で難しい顔をしている
あんまりしゃべらない、ちょっぴりコワいおじいちゃま
「おばあちゃまのことは好きじゃないんだ。これじゃ、おばあちゃまがかわいそう」
幼心に「なのに、いつも笑顔でおじいちゃまに話しかけるおばあちゃまは凄い」とすら思っていた
最近になって母に聞くと、おじいちゃまは福島市内でも有数の染め物工場の稼ぎ頭だったのだそうだ
口に染料を含んで吹き付けたり、誰も作れないような微妙な色合いを染める反物は、それはそれは評価が高く、兄弟の誰も真似することのできない職人だったのだという。しかし、生粋の職人気質だったため経営には向かず、工業化の波の中でお兄さんに工場を譲り渡し、隠居したのだった。
そっか、それで、絵を書いていたんだ
そっか、おじいちゃまも、いろいろあった人だったんだ
確かに、おばあちゃまはいつも変わった着物を着ていた気がする
いつも髪の毛をひっつめて口紅だけは欠かさない奇麗だったおばあちゃま
晩年は、病気が悪化して自分で毎日注射を打っていて
入院することも多くなっていた
忘れもしないそんな彼女がいよいよとの連絡を受け
父と母と2人の妹と福島医大病院に向かう車の中
少し薄暗くなってきた10歳の夏の夕暮れのことだった
4号線南下し蓬萊の坂を上っていたガラスから外を見つめていたら
ふとおばあちゃまが横切っていった気がした
「ちかちゃん、またね!」っていつもの笑顔で
病院についたら、おばあちゃまは亡くなっていたけど
不思議とコワくなくて、さみしくもなかったように記憶している
そんなことより、さっきの「またね」が気になって
おばあちゃまには、いつだって会えるって、そんな気がしていたから
またすぐに会いたくて、次はいつ会えるんだろう、そんな風に思っていた
それから19年
彼氏と別れてズタボロなとき
仕事で行き詰まって倒れそうなとき
お盆やお彼岸に両親に誘われてもいかないくせに
ことあるごとに1人でおばあちゃまのお墓に行っては泣いてた
おばあちゃまは、そんな都合のいい私も受け止めてくれたのか
不思議といくといつも気持ちが静まった
今年の3月、両親への挨拶を済ませた次の日の朝も思いついて
「おばあちゃまに会いに行っていい?」と旦那さんにお願いして
震災後、はじめてお墓に行って2人で報告をしてきた
親に報告するより、facebookに書くよりも「結婚」を実感したのを思い出す
「そうかいそうかい、よかったね」ってあの笑顔でいわれた気がしてとても安心したんだった
戦後間もなくのお見合い結婚
高度経済成長期のめくるめく環境の変化
ベビーブームのただ中に子どもに恵まれなかったという彼女の人生
まぎれもなく、時代に翻弄された人だったのだと思う
それでも「そうかい、そうかい」と笑っていたあの笑顔
その笑顔にこうして何度も助けられてきた私
人が生きる意味を教えられている気がしている
そして本当に素敵な人だったんだと今、あらためて想う
比べることは決してできないけれど
震災、放射能、少子高齢化や孤立社会
今の日本だって本当におかしな時代で
未来への不安だってたくさんある
けれど私は、自分の決めた好きな人と一緒になれた
それだけでも十分だね
おばあちゃまの、何倍も恵まれている私は
おばあちゃまの分まで、幸せになるって決めてる
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7月7日、おばあちゃまの、命の日に、籍をいれました
背中を押してくれたおばあちゃまのお陰で
また、私が、新しく生まれ変わることができました
ありがとう。いつも見守ってくれているおばあちゃまと、
両親と、こうして想ってくれるすべてのひとたちに
そして、これからも、どうぞよろしくお願いします。
7月7日、北海道の空は晴れていて、何年かぶりに天の川・ベガとアルタイルを見ることができましたょ。あなたもあなたの大好きな人と、どうか幸せでありますように、とこの歌にのせて♪
http://www.youtube.com/watch?v=kEYrYarOLWc
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